元旦地震(能登半島地震)で被災した多くの住宅建物が、新潟県内でも発生したが、その約3/4が新潟市に集中している。また新潟市の建物被害の約8割方が西区に集中しているという状況のようです。震源地の能登との距離からすれば、上越市や柏崎・長岡市が不利のように思うがそのようにならなかった。
日本では60年前の新潟地震で「地盤の液状化・側方流動化」研究が始まり現在に至っている。今では、建物の設計の際に「液状化」を想定した「支持杭」の設計を行っているが、「地盤の側方流動化」に対応した検討は殆どなされていません。元旦地震以降、新潟市でも『新潟市宅地等耐震化対応・対策検討会議』が発足し、R6年度内に宅地地盤ヘの耐震化対策が示されることとなっていますし、道路や下水道の早期復旧も協議されています。おそらく多くの時間と費用を投入しなければならなくなると考えます。
現代は、「明日・未来」という時間感覚に「進化」「発展」という概念が滑り込み、都市化(回りから自然を排除する)が無条件に善とされてきた感が強いと感じています。さらに情報化社会の進展が、われわれの大地の特徴や そこに発生した自然災害への脅威から、人びとの目を背けさせて「他人事」のように感じさせているのかもしれない。 わたしたちは仕事柄、新潟の大地の特徴や過去の自然災害等に関心が深いが、もう一度「自分事」として捉え直してゆくことが大切な使命です。
日本は大型地震(M6)は世界の約2割が集中していると言われますが、新潟はもう一つ「水害」が古くから語りつがれています。1896年(M29年)の「横田切れ」と言われる水害が過去最大で、新潟市から長岡市までのほぼ全域が浸水しました。これを契機に大河津分水を建設(1870年(M3年)起工されましたが中断、1909年再会され、起工から約50年後の1922年通水)した訳です。現在では、分水から上流の信濃川の流水全てがこの分水路に注がれています。
大河津分水によって流量が減った信濃川河口部では、その埋め立てや、現在の萬代橋(3代目1929年竣工)の架け替えが行われました。(2004年 橋としては日本橋に続く二つ目の国の重要文化財に指定)関屋分水は、新潟市の地盤沈下を起因として新潟地震後の1965年に着手され、わずか8年間で通水されました。
萬代橋がの国の重要文化財化する前に、架橋当初の姿に再生するためのプロジェクトに、参加させていただき、その当時の時代背景や多くの橋梁技術に触れる機会を得、とても忘れがたい事でした。
萬代橋の設計が行われていた昭和初期は、大正12年(1923)に起きた「関東大震災」以後、東京の隅田川にかかっていた橋の架け替えや新設で、海外の技術者の協力のもと、日本の橋梁建設技術は飛躍的に発展していた時期です。その後、萬代橋は日本の技術者のみで、設計や工事が行われ、完成した橋です。古い図面や写真、そして橋の構造計算書や工事の見積書を手にする機会がありました。萬代橋の設計を担当したのは、橋梁技術者の福田武雄氏と建築家の山田守氏でした。
建設当時萬代橋は、4つの異なるサイズのアーチを使い、橋の中心で左右対称にした8つのアーチを連ねた形でした。さらに、橋の側面から注意深く見ると、橋全体が大きなアーチとして設計され、リズミカルで力強い表情をしています。 どのアーチも単純な円ではありませんから、かなり複雑でありながら綿密な設計と計算が行われています。
驚いたのは、福田氏は(1926)当時、なんと24歳の大学を卒業したばかりの青年だったにもかかわらず、わずか半年間で萬代橋の設計を仕上げていたことです。 コンピューターは勿論のこと、電卓さえない時代ですから、当時の大学での教育や学びは、相当に高度なものだったと考えられます。自分自身の24歳の時と比較すると、あまりにもかけ離れた能力・才能、何よりも自分の学びを社会に還元しなければならないという強い意欲を持っていた時代の技術者に対して、脱帽でした。