わたしたちの「場所」 (our place)
■自然と人と都市環境とが調和する、潤いのある地域創造を基本理念として、地域・風土・文化に根差した建築活動を標榜しています。
■有史以来、自然は人類にとって脅威であると同時に、生命を支える基盤です。その大地に働きかけ耕すことによる恵みによって自らを支えるという、大地との無事な関係をつくり守る知恵を長い間に身に付けてきました。大地を耕すという行為は、農業のみならず、経済活動であれ都市建設であれ居住であれ、人間の諸活動そのものが大地を耕す行為です。今一度、足もとの大地に目を向け、人の活動が自然と調和のとれた「わたしたち場所」としての「にいがた」を語りはじめなければなりません。(このコーナーは、NcAUのメンバーによるリレー記事です。


元旦地震(能登半島地震)
翔アトリエ:池田博文 ’24.07.23

 2024年元旦恒例のお寺への年始挨拶と神社への初詣を終え、日没を迎えようとしていた時、突如大きな揺れが自宅を襲った。かなりゆっくりとした横揺れが40秒ほど続いた。ラジオ・テレビの津波報道にしばらく自宅待機したが、6時過ぎに意を決して昨年竣工した「日本赤十字社新潟県支部会館」へ足を運んだ。すでに日赤職員は殆どが集結しいて、情報収集やその対応の準備に余念がなかった。会館に地震による大きな支障がなかったので、その日はひとまず自宅へと引き返した。
 翌朝、新潟市西区で地震被害が大きいと報道されていたので、以前設計をした建物を見て回ろうと新潟亀田内野線沿いに車を進めると、青山浄水場から西側で地盤の液状化・流動化に依る地盤被害や建物被害が見え始めた。西区役所の北側にある坂井輪中学校の前のスロープや土留めが大きく歪んでいたのを目にしたときは、その少し西側に設計した診療所と神社施設に対する不安が脳裏に浮かんだが、幸い事なきを得ているのを見て平常心を取り戻せた。その後いくつかの施設の外観の安全確認を終えて、海側の産業道路沿いがほぼ無被害であることを確認し、西区では砂丘列の内陸側の裾のに被害が集中していることが実感できた。
 その後中央区にある事務所(1982年竣工)に行ってみると、なんと、打合せ室の本棚(書籍満載)が打合せテーブルの上に倒れかかり真っ二つに割れていた。普段あれほど施主や周りの人たちに「家具・什器の耐震対策」を語っていたはずの自分の愚かさに愕然とし悲しみさえ覚えた。
 その後、新潟市の依頼で西区を中心とする学校施設の被災状況を確認調査し、新潟特有の地震に依る地盤災害がいかに無視しがたいかを再認識させられた新年であった。
 1964年の新潟地震のちょうど60年後の元旦地震は、自分が経験した新潟地震の記憶を再度呼び起こした。その時は信濃川に架かる八千代橋右岸にあった南万代小学校の五年生。給食を食べ終えた時、子どもながらに目眩のような揺れに襲われた。ふと窓から信濃川に架かる橋を見ると橋梁がゆらゆらと横方向にうねるような揺れ方をしているのが目に入ったが、まだ地震とは気づいていない。揺れが落ち着いて、とりあえず皆とともに3階から階段を駆け下り昇降口からグラウンドに出ようとした。なんとグラウンドが突如盛り上がりはじめた(実は校舎とも自分たちが沈み始めたのだ)。這い上ってグラン後の地割れを飛び越えながら東港線の道路に出て、空を見上げてみると北東方向に大きなキノコ雲のような煙が立ち上がっているではないか。同時に足もとに噴水が始まり、膝下まで水に浸かり自宅へ友人とともに逃げ帰った記憶が未だに消えない。逃げ帰る道々友人と「あの煙は原爆が落とされたのではないか」とさえ話していた。キューバ危機やケネディー暗殺が報道されていた時代で、子どもながらに何か起きるんではないかと不安を感じ取っていたのかもしれません。
 1995年の阪神淡路大震災の直後、民放テレビクルーの取材に同行した後、改めて新潟地震を資料を調べて驚いたのは、信濃川堤防が液状化・側方流動で萬代橋橋詰め付近の川幅が約23m狭くなったという資料(土木学会論文集第376号1986年12月)を発見した時である。
 新潟地震40周年目(同年中越地震発生)の記念講演会で利用した資料を基にその後2005年の組合員懇談会で「わが大地 設計者のための地球ノート」を発表し、その資料は組合にPDFファイルで残しています。

 この機会に若い人たちも新潟地震の記録映像や写真・被害報告書等をあらためて検索・確認してみてください。
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●1964年新潟地震オープンデータ特設サイト
https://ecom-plat.jp/19640616-niigata-eq/index.php?gid=10011